司馬遼太郎氏の生い立ちをみてみよう

1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市浪速区西神田町(現・塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。父方の祖父母は兵庫県出身であり、祖父・惣八は現在の姫路市広畑の農家に生まれ明治の初め上阪して菓子製造で成功した人物。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草小学校)に入学。学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。1936年(昭和11年)、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。さらに翌年、本土決戦のため新潟県、さらに栃木県佐野市に入り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。またアメリカが東京に攻撃に来た場合に栃木から東京に移動して攻撃を行うという作戦に「市民と兵士が混乱します。そういった場合どうすればいいのでしょうか。」とある将校が大本営からきた東北人の少佐参謀に聞いたところ、参謀は「轢き殺してゆく」といい[1]、22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」との疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。佐野での敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあったと考えられる。その後すぐに図書館通いを始める。


<<ウィキペディアより参照>>